なぜアイリスト天野は、まつ毛パーマなのか?
代表インタビュー Vol.1
有限会社ローヤル化研(1958年創業)/株式会社ローヤル美研(1975年設立)は、これまで「二重まぶた形成化粧品」や「まつ毛パーマ施術」のパイオニアとして、現在まで確実に歩みを進めて参りました。
当サロンオーナーでありトップアイリストの天野珠里が、創業者であり実父でもある(故)本多美喜雄よりローヤル美研を引き継いでから、2024年で49年目を迎えます。天野にとって「まつ毛パーマとは?」「どのようにお客様や会社に向き合ってきたのか?」「これからのロードマップは?」など、トップアイリストの天野が、その想いや半生を語ります。
「まつ毛パーマ」「二重まぶた形成化粧品」のパイオニアであり、常に時代の
“先”を生きていた父。そして“ちょっとひねった”感覚の持ち主である母。
私は、五反田生まれですが、(幼稚園)年中の時に山梨県に引っ越ししました。父は東京で仕事、母と子供たちは山梨で生活という「週末婚」に似たことを早くからやっていた家庭でした。父は、人よりも色々なことが早いので、周囲がついていかないというか…少し変わった人(笑)。今の時代では当たり前でも、その当時は(周りの人から見ると)「な、なんで?」と思われることをよくやっていたんです。
一緒に遊びに行った思い出はいくつもありますが、やはり「父=仕事人」というイメージが強いです。ただ、どんな仕事をしているのかは当時よく分かっていませんでした。
後になって段々と気が付いたことですが、もともと父は人の悩みを聞くのが得意。「誰かの悩みを解消することで、人が助かったり、人に喜ばれたり…それがすごく嬉しい」と言っていました。なのでそういったことをお仕事にしてきているのかなぁと。何を作るにしても簡単に考えないで、より深く考えて応用ができるような、妥協なくしっかりとしたモノを作る人。それが、「まつ毛パーマ技術」であり、「二重まぶた形成化粧品」だったのではと今では思っています。

母は料理を作るのがとても上手で、山梨では喫茶店を経営していました。それこそ、母も(父と同じく)普通の人ではなくて笑、美味しいものを求めて、お休みの日にわざわざ東京の教室でお菓子づくりを習ったり、イギリス人の方の料理教室に通ったりっと、少し“ひねって”いる人なんですよ。田舎では珍しいタイプの人だったんじゃないかな。
ただ、母が作るものはどれもとても美味しくて、その影響からか「私はケーキ屋さんになる!」と考えていました。
田舎の人は、「1回は都会に出るのが当たり前」という雰囲気があるのですが、ケーキ屋さんになることが夢になった私は、高校卒業後、東京の二子玉川にあるお菓子専門学校に入学。たんなる田舎っぺだったので、父が経営するローヤルビューティーセンターでまつ毛パーマ施術のアルバイトをすることに。
当時はお化粧ひとつできなかった私ですが、サロンスタッフの綺麗なお姉さんたちに色々教えて頂きながら、2年間の専門学校時代ずっと父のサロンで働いていました。

夢のケーキ屋さんから一変し、まさかの父の会社へ就職
専門学校では洋菓子専攻だったのですが、お菓子づくりはクリエイティブでないといけません。自分で想像し、絵を描き、色を付けてなど、大きなケーキなどを作品として作らなくてはいけませんでした。
私は昔から考えることが苦手で、つまり創造性に乏しくて、、。誰かの真似はできても、自分の中でイメージがほとんど湧いてこないという性分でした。
また、授業でケーキが3台くらい出来上がるため、生徒が食べきれない分は外に寄付していたのですが、食べるものを捨てるのが苦手な私は、本当に寄付されて食べられているのかな?と常に気になっていました。どうやら「私はお菓子づくりには向いてないな」と少しずつ感じ始めてもいました。

いっぽう、ローヤルビューティーセンターでのアルバイトは、基本的には単純作業ですが、色々なまつ毛や瞼にあわせて施術自体が変化していく。言い換えれば「基礎がしっかりしていれば、いろいろ応用できる」という性格を帯びていていることに気がつきました。私自身とても不器用なのですが、「しっかり技術を習得すれば、お客様のお目元に合わせて、色々な“答え”が見つかる」というお仕事でして、あ、これは天職だなぁと感じてしまって…。
父には厳しく反対されたのですが、そのままアルバイトから就職しちゃった感じで笑。それが20歳のころで今に至ります。